吹奏楽部の歩み - 松井隆司先生時代
 昭和60年(1985)4月、吉永先生の後任として兵庫県立明石北高等学校より松井隆司先生が着任した。
 松井先生は、兵庫県立明石高等学校出身で、大学在学中からOBとして明石高校吹奏楽部を指導し、吉永先生が指揮者として兵庫県吹奏楽コンクールに初めて出場した昭和43年(1968)、奇しくも松井先生も明石高校吹奏楽部を率い、初めて指揮者として同コンクールに出場している。大学卒業後、昭和47年(1972)明石北高校の創立と同時に同校に赴任し、兵庫高校に異動するまで13年間、音楽科教諭、音楽部(吹奏楽)、顧問として同校の発展に寄与した。全くゼロの状態から立ち上げられた同校音楽部は、12年目の昭和58年(1983)には、兵庫高校、尼崎市立尼崎東高等学校、兵庫県立尼崎西高等学校に続き、兵庫県では4校目となる全日本吹奏楽コンクール高等学校の部出場を果たし、昭和55年(1980)の兵庫高校についで2校目となる金賞を獲得した。
 明石市では、多くの学校の吹奏楽部が熱心に活動しており、学校間の交流も盛んである。また、技術指導も組織的に行われており、特に、中学生対象の楽器クリニックは効果的で、高校入学時に既に高い演奏技術を持った生徒が多く見られる。
 兵庫高校に着任した松井先生は、部員達の積極的な活動姿勢と、より高度な演奏技術への可能性に応えるため、楽器ごとにトレーナーを投入するなど、明石地区で行われていた合理的な練習方法を実践していった。また、上級生の技術が下級生により浸透しやすい環境を構築するため、3年生の引退時期を5月の文化祭からコンクール終了時に変更することを提案した。このような提案は、当時の2, 3年生(38回生、39回生)にとっては、戸惑いも多かったと思われたが、38回生を中心にこれを乗り越え、松井先生の考え方は徐々に浸透していった。トレーナーによって個人の演奏技術は大きく向上し、また、40回生から正式に引退時期が変更された。
 また、松井先生は楽器の更新に力を入れた。歴史が長い分、古い楽器も多く、修理費用、新規購入費用は相当な額になりつつあった。そこで、平成元年(1989)、部員の保護者による「吹奏楽部振興会」が組織され、費用を一部提供していただけることになった。吹奏楽部振興会は、物心両面にわたり、吹奏楽部の活動を支え続けてくれている。
 この頃、周年の学校では自前の演奏会をする所が増えてきた。兵庫高校ではOB吹奏楽団の定期演奏会が昭和54年(1979)から行われ、吹奏楽部も出演していたが、部員達の「自分たちの演奏会を創りたい」という思いが実を結び、平成元年(1989)6月、第1回兵庫高校吹奏楽部定期演奏会が神戸文化ホール中ホールにおいて開催された。定期演奏会は、OBによるジャズコンボの演奏、合唱、弦楽部と合同のオーケストラ曲の演奏など、ユニークな試みを続けながら、現在も盛大に開催されている。
 このような様々な新しい動きが軌道に乗るなか、平成元年(1989)の吹奏楽コンクールでは、交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(R.シュトラウス)が自由曲の候補になっていた。この曲は松井先生にとって、明石北高校でも自由曲として取り上げた愛着のある曲である。しかし、この年は著作権の関係でこの曲が演奏できないことが判明し、急遽自由曲を吹奏楽の名曲「ディオニソスの祭り」(シュミット)に変更した。この曲は定期演奏会のプログラムに入ったこともあり、コンクールでは完成度の高い演奏を披露することができた。そしてこの年、吹奏楽部は5年ぶりに関西吹奏楽コンクールの出場権を得、さらに全日本吹奏楽コンクールまでコマを進め金賞を受賞した。会場の普門館では、課題曲のマーチで金管メンバーがスタンドプレイを見せるなど、楽しい演奏で勝ち取った金賞であった。また、松井先生にとっては、兵庫高校へ着任してから4年余りの間に部員達と試行錯誤の末ようやく見いだした部活動の形の完成を意味し、来る黄金時代の礎となる受賞であった。
 平成2年(1990)には、兵庫トヨタ株式会社から、ハープなど数十点に及ぶ楽器を寄贈していただいた。また、この年から演奏会用のユニフォーム(白のブレザー)を着用するようになり、定期演奏会などのステージは華やかさを増した。新しいユニフォームに身を包んだ部員達は、初の2年連続全国大会出場を果たし、白のブレザーは、兵庫高校吹奏楽部の新たな時代の象徴となり周囲のあこがれの的となった。
 この年のコンクール自由曲は、バレー音楽「火の鳥」より(ストラビンスキー)である。松井先生が選ぶコンクール自由曲は、「ディオニソスの祭り」以外すべて編曲物である。昭和63年(1988)の組曲「ハーリ・ヤーノシュ」より(コダーイ)をはじめこれらの曲の多くは西山潔(29回生)の編曲による。彼は、兵庫高校の周年行事で使用された曲のアレンジなどにその才能を見せていたが、松井先生時代は、特にその曲数が多く、これは吹奏楽部の美しい響きの基盤となり、演奏の幅を広げることにも貢献した。
 その後、松井先生率いる兵庫高校吹奏楽部は、平成4年(1992)から平成8年(1996)まで5年連続で全国大会出場を果たし、平成5年(1993)には3度目の全国大会金賞を受賞した。そして、昭和55年(1980)、平成元年(1989)の全国大会金賞受賞時とこのときの3度にわたり、兵庫県教育委員会から「ゆずりは賞」を受賞した。
「創部50周年記念誌(2006年3月発行)より」
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