吹奏楽部の歩み - 名生昭雄先生時代
 昭和40年(1965)4月、育英高等学校から名生昭雄(みょうじょうてるお)先生が着任し、吹奏楽部顧問に就任した。先生は吹奏楽部は何をどうすべきか、どうあるべきかを確立し、またOB会活動のあるべき姿を示し、その育成に尽力した。先生は、育英高校在任時も同校吹奏楽部を指導したが、先生自身が兵庫高校の卒業生(2回生)であることから、兵庫高校吹奏楽部にもよく気を配っていた。昭和39年(1964)、17回生が文化祭でチャイコフスキーの大曲、序曲「1812年」を演奏するにあたり、育英高校吹奏楽部員に応援出演を依頼した際、先生から快諾を得たというエピソードが残っている。その時の学生指揮者は、のちに名生先生とともに顧問となる吉永陽一(17回生)である。
 先生が顧問着任後まず着手したのは吹奏楽連盟への加盟であった。連盟に加盟することは、顧問自身にとってさまざまな仕事上の負担がかかることを意味する。いくつかの学校では生徒が連盟への加盟を望んでも、そういう事情から見送られることもあった。しかし先生はもちろんそのことを承知の上で加盟の手続きをした。当時の吹奏楽部は、ただ楽器を吹くのが好きな学生の集まりというだけで、運営のほとんどを学生が中心になって行っていた。また、発表の場は春の文化祭、秋の吹奏楽祭(育英高校主催)、2学期末の文化部発表会と体育祭でのドリル演奏ぐらいだった。そんな状況の中で、先生は連盟の活動に参加させることによって、部員の視野を広げることを企図したのだった。
 また、先生は、部活動の指針とするため、「人間は尊重せよ。だが音楽には妥協はない。」「よい音楽を聴き、よい耳を養おう。」「楽器を大切にしよう。楽譜を整頓しよう。」の三つのスローガンを掲げた。
 さらに、先生は基本的な練習方法についても指導した。その当時は今日のようにチューナーなどは一般的ではなく、チューニングは音楽室のピアノに頼っていた。また個人練習やパート練習のときは音叉を使っていた。そこで先生はチューニング用に電動オルガンを購入した。これは運搬も容易で、その後合奏、パート、セクション練習時に大いに活躍することとなった。
 吹奏楽部にとって楽器不足は常につきまとう問題であるが、当時の楽器事情は現在とは全く比較にならないほどお粗末なものだった。もちろん生徒会や学校の予算は高価な楽器を購入するにはほど遠いものだった。それでも、先生はどこからか資金を工面してきては、前述の電動オルガンのほか、リチャード社のチューバ、ケノン社のトロンボーン、ジャルジャン社のシンバルなどほぼ5年にわたって次々と購入し、部の楽器を整備していった。
 「部の構成、楽器の編成などあらゆる点で短所が目立つ。『アンバランス』と云うのが現状を見ての実感である。だが、生徒の素質と努力は決して他校にひけをとるものではない。それだけに顧問として責任をひと一倍身に感じている。」(はいまーと第1号 名生先生の寄稿より)
 さらに、先生は「学校行事優先」の姿勢を絶えず生徒に指導した。この教えは吹奏楽部が全国大会に出場するまでに成長したあとも守られている。
 また、「部活動は学校・生徒・同窓が三位一体になることによって発展する」との持論から、OB会を奨励、育成した。昭和40年(1965)には会長に小林昌夫(15回生)が就任し、会報「はいまーと」が発行された。その後、岡野利昌(18回生)が会長に就任した昭和48年(1973)頃から本格的なOB会活動が始まり、ほぼ年1回定期的に総会を開き、現役部員とのつながりもより緊密さを保つようになった。先生はOB会のあり方について常々次のように述べていた。「卒業生の会は2つの目的を明確に分類すべきである。一つは卒業生相互の親睦、もう一つは母校への物心両面の援助である。部運営への干渉は決して部の発展にはつながらない。このことは過去の歴史が教えている。敢えて言う、『金を出して、口を出すな。』と。」
 このように先生はOB会に対して警笛を鳴らしたが、今後ともこの教えにはOB一同肝に銘じていかねばならないだろう。なお、OB会は、以後再び小林が会長となり、平成7年(1955)の阪神・淡路大震災という危機的な時期も乗り越え、現在も現役部員とOBとのパイプ役として活動している。
 このころの主な活動は次の通りである。
 昭和41年(1966)3月、野球部が春の全国選抜高等学校野球大会に出場し、甲子園でその応援をした。また同じ昭和41年8月に初めて吹奏楽連盟主催の兵庫県吹奏楽祭兼コンクールに出場した。コンクールの部ではなく吹奏楽祭の部への参加であったが、当時は吹奏楽祭でも審査が行われ、近藤千里(20回生)の指揮により、初出場ながら見事優秀賞(現在の金賞)を受賞した。昭和43年(1968)5月には兵庫高校創立60周年記念式典において現役部員・OBが合同演奏を披露した。指揮は当時大学生の吉永で、「ウェスターナーズ」(ワルターズ)と「ミッドナイト・イン・パリ」(モンラッド、モギットソン)を演奏した。さらに、音楽部(合唱部)、ユーカリプタス(音楽部OBにより合奏団)との合同で「ハレルヤ・コーラス」(ヘンデル)も演奏した。この演奏に向けての合同練習には創部以来のOBが集まり、当時の現役部員にとっては初めての経験となった。
「創部50周年記念誌(2006年3月発行)より」
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