吹奏楽部の歩み - 吉永陽一先生時代
 昭和46年(1971)10月、突発的な事情により兵庫県の音楽教員の異動があり、兵庫高校には和田正先生に代わり17回生の吉永陽一先生が着任した。それまでもOBとして昭和43年(1968)には兵庫高校創立60周年記念式典やコンクールで指揮者として吹奏楽部を指導していた吉永先生が、兵庫高校吹奏楽部の顧問となったのである。
 先生は着任後すぐ音楽鑑賞会での吹奏楽部の演奏を実現させ、部員は神戸国際会館の大舞台に立つことができた。また、昭和48年(1973)には神戸文化ホールが開館し、本格的なステージ演奏が多くなったのもこの頃からである。さらに専門家の意見を聞くことも大切であると考え、手始めに著名な作曲家で吹奏楽指導にも実績のある兼田敏氏の指導を受ける機会を設けた。楽器、機材もこの頃ますます整備されていった。本格的な10号オープンリールのテープレコーダーが卒業生から寄贈され、練習の精度は大幅に向上した。その後、夏のコンクールや音楽鑑賞会などの大編成の演奏だけではなく、少人数のアンサンブル活動にも力を入れ部員の演奏レベルは着実に向上していった。
 そんななか、昭和49年(1974)の合宿で名生先生は皆を前にして次のように話した「随分演奏のレベルも上がってきた。これからの兵庫は全国大会出場を目指すべきである。」この突然の発言には、居合わせた誰もが驚きと苦笑を隠せなかった。しかし、まさかそれが同じ年に現実のものになろうとは、そのとき誰が想像しただろうか。
 当時の吹奏楽コンクールは、県大会の優秀校3〜4校が関西大会へと進み、さらに関西大会の最優秀校のみが全国大会へとコマを進めるしくみであった。ところが、この年関西から全国への代表校は2校へと枠が広がり、また全国大会開催地区にはさらにもう1校出場枠が与えられるというルールになっていた。そして、先の名生先生の発言があったその年、昭和49年(1974)の全国大会は、前年開館したばかりの神戸文化ホールで行われることが決まっていた。すなわち、この年関西地区から全国大会への代表校はそれまでの1校から一気に3校になっていたのである。
 コンクールをめぐる状況がそんな風に変わっていることなど知らぬまま、いつもの年と同様に出場した県大会では第3位で関西大会出場。そこでも天理高等学校、大阪府立淀川工業高等学校に続き、第3位でなんと第22回全日本吹奏楽コンクールへの出場権を獲得したのであった。そして11月5日全国大会当日、「地の利を生かした」というべきか、全国大会出場であるにもかかわらず部員は1時限目の授業を受け、2時限目から公欠を取って会場に向かった。審査結果は、出場15校中2校のみが金賞、兵庫高校を含むその他の13校すべてが銀賞受賞であった。初めて経験した大きな大会で目の当たりにした他校の音楽、楽器、行動のすべてが大きな刺激となり、次の新たな時代への入り口となった。何を目指すべきか、その輪郭が具体的に見え始めたときでもあった。吉永先生27歳の年である。
 翌昭和50年(1975)には、初めて県大会最優秀賞を獲得するも関西大会では第3位となり、2校の全国大会出場枠内には入れなかった。しかし、この後も県代表として関西大会への出場を続けていった。コンクールに取り組む3年生の真剣な練習姿勢が毎年好影響を下級生に与え、相乗効果を生み出していった。
 昭和51年(1976)6月には創部20周年記念演奏会があった。しかしこの演奏会からほどなくして28回生の藤本圭子さんが事故で急逝するという悲しい出来事が起こった。彼女を追悼する演奏は図らずもOB吹奏楽団の発足のきっかけとなり、藤本さんのご両親から「娘の思い出に」と寄付されたチャイムは吹奏楽部の演奏を一層美しくするものとなった。
 翌昭和52年(1977)には2回目の全国大会出場を果たした。この年から全国大会は東京杉並の普門館での開催に固定された。東京へはバスで往復し、疲労と緊張を伴う大会であったが満足いく演奏ができた。
 そして昭和55年(1980)、兵庫高校としては初めてコンクールでクラシック曲の編曲作品「ローマの祭り」(レスピーギ、吉永陽一編)に挑戦し、関西大会1位、全国大会においても金賞を獲得した。兵庫高校吹奏楽部が伝統的に持つ豪快さと、音楽的に成長した緻密さ繊細さとが、吉永先生指揮の「ローマの祭り」に結実したものであり、正に伝統を受け継ぎながら総力を結集して勝ち取った金賞である。新聞は「兵庫高校吹奏楽部、兵庫県勢で初めての全国大会金賞受賞」と讃えた。吹奏楽部創部25年目の快挙であった。
 その後、吉永先生は本格的に指揮法を学びたいと考えるようになり、その思いは桐朋学園への1年間の内地留学へと導く。先生はその経緯をこう語る。
 「7回生の先輩で当時桐朋学園大学教授の平吉毅州先生から『指揮の勉強に大学に来ないか』と言われたことがきっかけで内地留学を申し出ていた。2年越しの熱心な留学希望に、ついに県教育委員会から無給・休職を条件に許可を得た。」
 昭和57年(1982)4月からの1年間、吉永先生は念願の内地留学に出た。その1年間で彼が学んだのは、指揮者にとって重要なことはまず音楽感覚を豊かにすること、そして奏者の心をつかむことであり、指揮法テクニックを磨くだけでは演奏は豊かにならない、ということであった。吉永先生の内地留学中は、当時クラリネットのトレーナーであった川崎大二郎氏が音楽面を、顧問でOBでもある21回生の宮地泉先生が運営面を担った。
 昭和58年(1983)4月、吉永先生は兵庫高校に復職し、その夏の吹奏楽コンクールで見事に全国大会に出場し銀賞を受賞する。
 昭和60年(1985)3月、吉永先生は兵庫県の県立高校としては初めて音楽科が設置された兵庫県立西宮高等学校に異動することになり、13年間余りを顧問として過ごした兵庫高校吹奏楽部をあとにした。
「創部50周年記念誌(2006年3月発行)より」
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